「英語なら、国内でも学べるよね」
留学を考え始めた頃、そう言われたことがあります。確かにその通りです。オンライン英会話も、ネイティブのコンテンツも、今や国内にいながら好きなだけ使えます。情報という意味では、海外にいなくても世界とつながれる時代になりました。
それでも私は、留学を選びました。そして今、あの選択は正しかったと思っています。ただし、その理由は「英語が上達したから」ではありません。
「わかる」のに、「できない」という経験
現地に着いてすぐ気づいたのは、自分の英語が「読む・聞く」はそこそこでも、「とっさに話す」になった途端に体が固まるということでした。
スーパーでの会計、職場での雑談、大家さんへのクレーム。日本なら何でもない場面が、一つひとつ小さな試練になります。恥をかいて、誤解されて、それでも翌日また話しかける。そのサイクルの中で、言葉は初めて「使えるもの」になっていきました。
勉強で得た知識と、体で覚えた言葉は、まるで質感が違います。それを実感できたことが、まず一つ目の収穫でした。
「自分の常識」が通じない場所に立つこと
もっと大きな変化は、別のところで起きました。
締め切りに対するルーズさ、会議での遠慮ない発言、上司への反論を当然とする空気。最初はただ戸惑っていました。「なんでこっちの人はこうなんだ」と感じることも正直ありました。
でも、ある日ふと思いました。自分がずっと「当たり前」だと思っていたことは、日本という環境の中だけで育まれた感覚だったのではないか、と。
異文化に触れるというのは、相手を理解することだけではありません。自分がどういう価値観の中で生きてきたかを、初めて外側から眺める体験でもあります。社会人になって数年、仕事をこなすことに慣れてきた頃だからこそ、この気づきはずっしりと響きました。
仲間と「よそ者」であることを共有した時間
言葉も文化も違う土地で、うまくいかない日は必ずあります。そういうとき、同じように悪戦苦闘している仲間の存在が、思いのほか大きかったです。
国籍もキャリアも違う人たちが、みんな「ここでは新参者」という共通点だけで集まります。愚痴を言い合いながら、励まし合いながら、気づけば本音で話せる関係になっていました。
あの経験は、帰国してからも自分の中に残っています。「あの状況を乗り越えたんだから、これくらいはなんとかなる」という、根拠のある自信として。
留学で本当に変わったのは、「自分への見方」だった
キャリアのために留学を考えているなら、語学力やグローバルな視点が得られることは間違いありません。でも、それ以上に大きいのは、慣れた環境の外に出て、もがいた経験そのものだと思います。
ネットでは情報は得られます。でも、自分が壁にぶつかる感覚も、それを誰かと乗り越える感覚も、画面の向こうには存在しません。
留学は、語学を学びに行く場所ではなく、自分が何者かを問い直しに行く場所でした。そう気づいたのは、帰ってきてからのことですが。